1. HOME
  2. 宗派のご紹介

宗派のご紹介

私たちの総本山は智積院(ちしゃくいん)と言い、
京都の東山七条にあります。智積院は足利時代の中頃、
興教大師ゆかりの根来山内の寺院のーつとして創建されました。

真言宗について

仏教のはじまりは、今から2500年ほど前にインドでお釈迦さまが悟りを開かれ仏陀となられたことから始まりました。
やがて中央アジアを通って中国・モンゴルなどに伝わり(北伝仏教)、その後、朝鮮半島を経由して6世紀頃日本に伝来しました。
またインドからセイロン(現スリランカ)に伝わった仏教は、11世紀にはビルマ(現ミヤンマー)やタイへと伝わっていきました(南伝仏教)。
この中でも、弘法大師(こうぼうだいし)・空海(くうかい)によって開かれた真言宗は、密教といわれています。
密教とは「仏さまの秘密の教えを明らかにした教え」という意味であり、この教えはお釈迦さま在世時代のインドにすでに存在し、それが7世紀ごろに段々と体系化され、8世紀には中国やチベットに伝わったとされています。
この教えが弘法大師空海によって、日本に伝えられ、真言宗となりました。

真言宗智山派
について

弘法大師空海が高野山でご入定されてからおよそ260年たって、興教大師覚鑁が高野山に大伝法院を建てました。そして、弘法大師の教えを再興するとともに、学徒を養成し、後に「新義」といわれる真言宗の教学を確立しました。それゆえに興教大師は「中興の祖」とあおがれています。
そのため、真言宗智山派の寺院では、宗祖・弘法大師と中興の祖・興教大師の両祖大師の御尊像をお祀りし、「南無大師遍照金剛(なむだいしへんじょうこんごう)」、「南無興教大師(なむこうぎょうだいし)」とお唱えしています。
その後、保延6年(1140)に、修行の場を高野山から、同じ和歌山県内の根来山へと移し、根本道場としました。
鎌倉時代の中頃には、頼瑜(らいゆ)僧正により、大伝法院を高野山から根来山へ移しました。 根来山は、学問の面でもおおいに栄え、最盛時には、2900もの坊舎と、約6000人の学僧を擁するようになります。智積院は、その数多く建てられた塔頭寺院のなかの学頭寺院でしたが、巨大な勢力をもつに至ったため、天正13年(1585)、秀吉の軍勢により、根来山内の堂塔のほとんどが灰燼に帰してしまいました。
当時、智積院の住職であった玄宥(げんゆう)僧正は、難を高野山に逃れます。
豊臣秀吉の死後である、慶長6年(1601)、徳川家康公により、現在の京都東山の豊国神社境内の坊舎と土地が寄進され、五百佛山根来寺(いおぶさんねごろじ)智積院が再興されました。
 智積院は、弘法大師から脈々と伝わってきた真言教学の正統な学風を伝える寺院となるとともに、江戸時代前期には運敞(うんしょう)僧正が宗学をきわめ、智山教学を確立しました。こうして、智積院は学侶が多く集まるようになり、学山智山と称され多くの学僧を生み出しました。
やがて明治33年(1900)に智積院を中心に活動していた全国の約3000の寺院が結集し、智積院を総本山と定めました。